俄か雨

しがないバンギャルのたわごと

推しと感情労働、あるいは「いいファン」でありたかった私へ

こんな与太話ブログの頭で書くのもなんですが、なんか今小さいビジネスの種みたいなものをあちこちにぶん撒いているので、何かしらうまくいくと良いなと思います。LINEの公式アカウント開設が意外と簡単だった話はしていきたいと思います。そのうちに。
っていうか起業用に1年くらい前にブログ作りましたけど、なんならこっちでまとめてやれば良いんじゃないのかなという気はする。プラスになるかはともかくとして、人となりは伝わりそうな気がします。

なんか今年に入ってからは生きるのが楽しい。厄年のはずなんですけども。

与太話はともかく。
前回ブログの最後で予告した通り、感情労働の話をします。だいぶ経ってしまいましたが。

感情労働とは

まず定義。

感情労働とは割と最近言われるようになった言葉ですが、wikipediaだとこんな感じ。
感情労働 - Wikipedia

「感情が労働内容の不可欠な要素であり、かつ適切・不適切な感情がルール化されている労働のこと。肉体や頭脳だけでなく「感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などが絶対的に必要」である労働を意味する。」

こちらのサイト
感情労働とは? 肉体労働や頭脳労働との違い、具体的な職種、ストレス対策の方法 - カオナビ人事用語集

ではこんな感じ。

「相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働のことをいいます。」

前回つらつらと書いた相手のコンテンツ化という問題とはまた別次元の話で、あの他人の人生云々談義の枠に入れるなら、本人たちと言うよりはむしろどちらかというとそういう働き方をさせている事務所とかなんとか、雑にまとめるなら「推しの周囲を取り巻く偉い人たち」に対しての怒りとかそういう感情としての「他人の人生消費」という文脈で発言してる場合がこちらに関しては多いなと思います。
推しが本来業務でないことをやらされてる!みたいな。

この問題に関しては、確かに推したちも疲弊するよなーと思いますし、これを指す分にはもう少しやり方考えられないか?という指摘はもっともだと思います。そうするのが一番採算を取るのにいいとはいえ、若い才能使いつぶしみたいな面もあるしな。

かといってこれを「人生/生きざまの消費」とひとくくりに言ってしまうのもまた違うような気がする。これはこれで別の問題というか。
意に沿わぬ感情労働をさせられている人なら他にもいくらでもいるわけで、けれどその総体を人生の消費という言い方はあまり聞かない。何故なんでしょうね?

いいファンになりたい問題

この感情労働、ある意味で「いいファンでありたい」という発想と根っこがつながっているような気がします。

確かに握手会なんかなくたって我々おたくは音源を何らかの形で買うんですよ。だって好きだから。推してるんだから。
でも今ってCD一枚だせば100万枚売れるような時代ではもはやないし、それはつまりみんながひとつのものに熱狂しているわけではないので、結局「自分たちを強く推していてくれる人たちを中心にお金を払ってもらう*1」という形式になっているところが多いと思うんですね。そうすると現状では、「ある程度人格的にかかわる」というやり方が中心になる。

自分も推したちとの関係の中で体感しましたが、やっぱり「有象無象の中の一人」から「ファンの一人」、下手すると「○○から来てる××さん」みたいに人間関係ができてくると、相手を意識して動くということも出てくるわけで。
よく言われる「いいファンでありたい」というのもまさにその辺の表出だと思います。
本当によくよく考えたら「いいファン」とは?という感じなのですが、下手に入り込んでしまうとこういうことを考え込みだして欝々としてしまう。怖いですね。

SNSの何がアレって、推したちが他の人にどういう扱いをしてるかもなんとなく見えてしまうんですよね。積極的に聞きまわって探ったり話して回ってマウント取る層とかもいますが、そういうことをしようと思わなくても見えるときは見えてしまう様になった。
他のおたくがどのくらい時間と金を費やしているのかも、場合によってはどういう話をしてどういうリアクションをもらっているのかも。
そうなってくると無意識に「○○(他のおたく)ができているなら私だって」という思いに駆られるおたくも出てくるんじゃないかなと思います。だって自分と同じようなおたくが出来ているのだもの。出来ないはずはない。
この方向性をつきつめていくと他のおたくにマウント取るために課金で殴り合うおたくが完成する。

おたくの中で競ってお金を落としてくれれば推しや推しについている大人たちにとっては願ったりかなったりで、そうしたら広く浅く課金させるができなくなったとしても廃課金者たちのお金で採算は取れてしまう。そしたらwin-winである。そしておたくはそのうち疲弊して死ぬ。

「いいファン」問題も多分これと根は近くて、これを起こす層はマウント合戦に走るおたくと違ってある程度の自制心が効いちゃうところが余計にタチは悪いというか。
マウント層も「いいファン」層も、ある程度この「推しの感情労働」を所与のものとして受け取っているのだけど、そこの中で機会を積極的に掴みに行って承認欲求や他のおたくと比較した際の優越感を満たしに行こうとするのがマウント層で、一回限度もあるよねって飲み込もうとしてうまくいかなくなりがちなのがいいファン層という感じあります。

実際に、マウント層の不満とか拗れ方は割とわかりやすいのに対していいファン層がなんでよくわからない拗れ方をするのかというと、一番大きいのはなまじ自制心があるところだと思います。
感情労働自体は否定せずとも、負担にならない程度にやってほしいという気持ちと、自分の承認欲求との間で矛盾が起きてメンタルが死ぬ例が多いような感じがします。
前者の意識には負担云々だけではなくて、バリエーションが色々あるんですが。例えば本来はガチ恋勢だったのに、男のファンみたいな扱われ方をするので、女の子の集団の中ならそれはそれで美味しいので甘受はしている、でも…みたいなのとか。
まあ言うてもこれは完全にソース俺とその他自分の知ってるこじらせマンたちの言説からの推測と言った程度なんですけども。

未だに推しにSHOWROOMでコメント読まれて「次に○○の衣装着るときは来てね~」とか言われると「来てねって言われたしどこかで見に行かねば…」みたいな気持ちにはなります(直近の実話)
最近もまた「ファンなら○○してなければ、みたいなのがしんどい」みたいなツイートが複数流れてきてたのを見ましたが、やっぱりそれを思うのって人間関係が大きいと思うんですよね。だって自分一人だけだったら、どれを取捨選択しようがそこまで気にならないと思うので。
具体的には、自分一人の状態で「あの番組も見ておけばよかったかな」と思うのと、他人が「あの番組面白かったよ!」というのを聞いてからの「見ればよかった」だと後者の方がキツいのだと思う。
それがただ一方的にSNSで見かけてる人ならまだしも、人間関係がある人であれば余計にそうだろうし、さらに進んで推し本人とそういう話をするような機会がある人ならそれは余計に思うだろうと思う。

まとめ

まとめというか、上にも書きましたがいいファンでありたかった自分が自分の中にはあって、書いてるうちになぜそうだったのかというのがなんとなく言語化できたような気がします。だから書いたんですけども。

でもいいファン問題って結局他人の人生消費論の上に成り立ってるところあるから、その意味では矛盾に満ちた存在ではあるんですよね。難しい。

*1:悪い言い方をすれば、熱狂的な層から搾り取る