俄か雨

しがないバンギャルのたわごと

消費しなければ愛せない、のか?

試験が終わって多少暇になったのでブログを書いていこうウィーク。

試験自体の話を書こうかなと思いましたが、やっぱりまずこちらかなと。というわけで、表題通り(通り?)「他人の人生消費」に敏感になってしまう僕たち、みたいな話です。

「他人の人生消費問題」とは?

フォロワーさん(ついったの)がブログで他人の人生消費問題について書いてて、前から引っかかってはいた問題なので一度考えてみたいなと思っていたのでまとまった時間が取れたこのタイミングで書きました。

定義

でまずは、他人の人生消費とはなんぞやというところから。
このターム自体は、なんらか人前に立っている人(以下、推したち)のおたく(以下、おたくたち)が、自分たちの好意は推したちの人生を消費しているんだぞ、という文脈で使用されてるのを見ることが多いです。
概ね「他人の人生をコンテンツとして消費する」ことに対するネガティブな感情の表明という印象で、多くは、
・そういう消費をしている自分に対する自省、とか
・推したちが自分の人生を切り売りしてる(と見える)ことへの同情や憐憫であったり
・はたまたそういう売り方が主流になっていることへの、会社とか社会とかへの怒りに近い感情であったり
まあこのような中身が多いでしょうか。

まとめると

ざっくりまとめると、
・発言者は概ねこのワードを否定的な意味で発している
・そういう売り方は好ましくないと思っている
あたりが共通項なのかなと思います。

考えてみた

確かに他人は他の人のために消費されるコンテンツではないというのはもっともだし、それが負担の大きなことなら違う売り方できると良いよねとは思ったのですが、それにもなんとなく違和感があって考えてみました。

コンテンツ化、今に始まったことだろうか?

これ昔にも書いた気がするんだけど、まず、板の上の人の自身コンテンツ化自体は別に今に始まったことじゃないんじゃないか、と思いました。
例えば、どの界隈でも、というか特に音楽界隈で顕著ですが、みんなロングインタビューみたいなの好きですよね。少なくとも私は好きです。
CDを出せばおまけ映像として舞台裏の模様が入っており、有名バンドやジャニーズグループの非公式ゴシップ本みたいなものは未だに本屋に行けば棚を占めている。
それとこれと、一体どう違うのか。

例えば、というか、この記事を書く元になったブログから記載を拝借するなら(引用すれば良かった)、なぜメンバーがライブ中に「もっと売れたい」ということ、その言動を含めていいなと思うことを「生きざまの消費」ととらえてしまうのだろう、というところです。
私自身もその感覚は分かりますが、同時に違和感もあります。確かにその流れの消費っぽさは分かる、けど、例えばROCK AND READで売れたいみたいな話をするのはいいのだろうか?個人インタビューがだめなら、FOOL'S MATEとかSHOXXとかZyとかのバンド全員インタビューなら構わないのだろうか?どこまでが「個人の人生をコンテンツとして消費していない」ことになるのだろうか?
本人の口から、本人の生き方として語られなければ良いのだろうか?雑誌やTVというメディアの手が入っていれば良いのだろうか?

今も昔も推したちは自分の人生をある程度コンテンツとして公開している。確かにその公開範囲は年々広がっていて、本人が公開を望んでいるか微妙に思われることも広がるようになってしまった。
この「そっとしておいてもらえる範囲が狭まっている」点については、私も他のおたくたちと同じように同情的です。もう少し意識的に線引きできるといいなとは思います。

しかし、それはコンテンツ化云々そのものというよりはプライバシーの範囲の決定権の問題で、人生消費云々の議論とは少し離れているようにも思える。

じゃあなぜおたくたちは、これまでなんの罪悪感も持たずにやってきたコンテンツの消費に罪悪感を持つようになったのか。

これを考えたときに、「おたくたちが、推しが人間であることに気づいたから」かもしれない、と思いました。

「生産者の顔」は見えない方がいい?

もっと単純に言うと「自分と同じ世界の人であることを直視せざるを得ないから」かなーと思います。
古のおたく層からはよく「違う世界の人」とかいうワードを聞きます。推したちは手の届かない、違う世界を生きている。
そうであるからこそ、彼らの人生の一部を罪悪感なく消費出来た。

違う世界の存在でいてもらうためには、自分と似たような生活を送っていてもらっては困るわけです。アイドルはトイレには行かないしテレビで共演してるような女性としか遊んでないし、バンドマンと遊んでいいのは六本木とか銀座で働いてる夜のお姉さんとか*1テレビ局に出入りしてる綺麗なモデルさんであって、DM送ってくるちょっと見目のいいだけの、客席で隣にいる子では困ってしまうわけです。だってそれはおたくと同じ世界の相手だから。
ましてや我々おたくたちの言動を受けて感情を動かしたり、あまつさえそれにリアクションを返してもらっては困るわけです。違う世界の人ではなくなってしまうので。

違う世界の人でないとなにが困るか。これまで楽しくやってきた消費がやりづらくなります。
野菜であれば生産者の顔が見えた方が安心もできるし、相手はモノだからまな板で叩いて折ろうが何しようがある程度好き勝手に扱っても良い。罪悪感を持つなんてせいぜい、うっかり使い忘れて冷蔵庫の中で腐らせて捨てたくらいのことだろうと思います。

でも人間はそれとは逆で、違う世界という幻想があればある程度相手の人間性を無視した消費ができても、相手が同じ感性を持つ人間であると言うことが見えてしまうとそうした消費がしづらくなる。この人はもしかしたら我々おたくたちがする見方に傷ついているかもしれない、そう思うと消費に罪悪感をどうしても持ってしまう。

上の方に書いた、昔から消費自体はあったはずなのになんでこれは引っかかってしまうのか?どこまでの発言なら問題ないと感じるのか?というくだりも、推し個人の人間性、生々しさを薄めていく段階での許容範囲と考えると割と納得がいく気がします。
本人がライブや小さなイベント会場で言う言葉より、テレビカメラが代わりに見て雑誌編集が代わりに聞いた言葉の方が、本人が言ったという生々しさが薄れている。よりフィクションに近づいていく。

受ける側にしても、昔身近であった出来事を経ての感想ですが、他人から一方的な感情を投げられるというのはなかなか負担の大きいものだろうなと思うのも事実です。例えば人格とかを考慮されずにひたすら崇拝されると言うのも、人間であればあまり気分のいいものではないとも思います。
自分が目にしたのは、部活くらいの規模感の団体で、当時のリーダーを慕う後輩たちの感情が暴走して崇拝に近くなったというような事案なのですが、当時はリーダーからしたら結構怖いと言うか気持ち悪いに近かったそうです。
そういう方向性でなくても、女性であれば自分が人格を無視して品定めされるという経験が皆無の人って結構幸運なケースだろうと思いますし。
結局、そういうことがなんとなくでも想像がつくから、生身の人間を消費するということには躊躇いが生まれるのかなと思います。

余談ですけど、バンドマン*2なんかでは熱狂的にファンから崇拝されてるバンドとかそのメンバーというのがいますが、彼らは相当腹くくってるんだろうなと思います。腹くくれてる間はいいけど、教祖の座から降りたくなったときがきついだろうな。一旦教祖になった以上、教祖の座から降りるのには大変な労力がいるし、ファンというか信者も現人神であった教祖が人間宣言するのをそうそう許さないでしょうし。

どんな方向性であれ人間を人間と思わないような扱いをするという点において、ついでに言うなら昨今は距離が近くなってより自己/他者コンテンツ化も可視化しやすくなったことを思えば、確かに「他人の人生をコンテンツ化している」という自覚そして自制は必要だと思う。
でもこれ、この産業自体に多かれ少なかれ自己コンテンツ化という面はあるから気にしようがない部分もあるよね、とも思います。

結論

結論としては、これ全部繰り返しにはなりますが、他人の人生をコンテンツにすること自体は今に始まったことじゃないよなと思います。コンテンツ化の手法が違うだけで。
その人のよりパーソナルなところ、感情面が見える距離にいない方が推したちにも負担はかからないし、違う世界に置いておいたほうがおたくたちもコンテンツ化になんの罪悪感も持たないし、という意味で、そちらの方がお互い平和だし、逆になれば見えてしまうだけにお互いしんどい部分はあるよねというのも当然同意します。
だけど、そういう世界線に戻すっていうとどうなるかというと、SNS等をやらずに外に出す情報をコントロールするということになると思うんですけど、現状SNSって広告のツールにもなっているので、どうなんだろう。
。後者については、将来的にうまいことやる方法は見つかるんじゃないかとは思いますが。

タイトルに戻ってこの問いに答えるとするなら、私の答えは「多分yes」になりますね。業深い、でも消費だってある種の愛でしょう、結局。

あと、感情労働問題についても書きたいのですがとりあえず今回のからは省きました。近々書きます。

*1:余談ですけど夜の仕事って私が幼少期のころはもっと特別な仕事扱いされてましたけど、年々オープンになっていきますよね。一時期ではなりたい職業ランク入りまでしてましたし。職業差別的な方面に限っては良い傾向かとは思いますが

*2:特に一時期のV系界隈